コラム

『毛のない生活』の心と体のドキュメンタリー/山口ミルコ

【今日の一冊:抗がん剤!? 絶対ムリ、と思った人に響く本】

『毛のない生活』(ミシマ社刊)の著者、山口ミルコさんは、かつては幻冬舎という出版社に務め数々のベストセラーを世に送り出していた敏腕編集者。その出版社を退社した1ヵ月後、桜が咲く季節にしこりを右胸に見付け、乳がんが発覚。がんは脇のリンパ節に転移しており、手術、放射線、抗がん剤を選択することになります。

編集者らしい客観的な視点が冴え、淡々と克明に、時にクスリと笑わせるユーモアを交えて闘病の日々を日記形式で綴った本書。乳がんと告知されてショックを受けつつも、食生活を完璧に見直し、がんについて徹底的に調べ、「がんは私を夢中にした」という心境には、好奇心と探究心が旺盛な編集者気質が垣間見られます。

副作用による体の変化を恐れて躊躇していた抗がん剤治療。ようやく踏み切ると、二週間目で脱毛が始まり、二週間かけてすべての髪が抜け落ちた。山口さんが体験した副作用は、おもに脱毛、嘔吐、倦怠感。副作用の種類や度合いは人それぞれだから、「ある意味、誰も参考にならないし、誰もが参考になるともいえる。情報はあってもいいが、あまり気にしないことも大切だ」「いちいち自分にあてはめる必要はない。医者や研究者は、最悪の事態を耳に入れるのも仕事だ。それをきいておいて、で、自分はどうするか。身体感覚を優先させて、選択していけばいい」と、至極冷静に書いています。ジェットコースターのように一日のうちで激しく上下し、セルフコントロール不可能となった心理的な描写は、がんの治療を体験した人であれば共感深く読めるはず。

編集者時代は超多忙な生活を送り、家には寝に帰るだけだった山口さん。がんになってからは家で過ごす時間が増え、戸惑いと同時に新たな価値観が生まれます。途中で制作を手放した本が自分以外の人の手によって完成を遂げ、闘病中に手元に届く。自分が一度でも情熱を傾けたものは、たとえ遂行できなくてもきちんと感動を届けてくれると、山口さんは悟ります。理由があって途中で席を離れることは、中途半端でも挫折でもないのだと。

毛のない生活から、毛のある生活へと復活を遂げ、今、山口さんはフリーランスの編集者として活躍しています。再発は怖いといいながら、もししたら、何度でも復活すると。人生は何があるかわからないし、何が起ころうとも、なんでも経験しようと、清々しく覚悟を決めて生きています。

山口さんとは、知人を介して一度だけお会いしたことがあります。その頃私は、物書きとして何を突き詰めていけばいいのかわからず、モヤモヤした中にいました。そう打ち明けたら、「絶対に大丈夫、続けていれば自然と見えてくるから」と言葉をくれて、「あぁ、そうなんだ。それでいいんだ」とラクになった記憶があります。ひと山、ふた山超えた人の「大丈夫」には、底知れぬ安心感が宿っていました。

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