体験者インタビュー

息子は最重度知的障害の自閉症。母が乳がんになって気づいたこと

子育てとがん治療を両立するには大変な労力が必要であり、子どもに障害があればなおさらです。しかし重い知的障害の我が子に寄り添いながら治療と向き合う小林順子さんにとって、乳がんは単なる試練ではなく、生き方が変わる転機でもありました。

 

習慣にしていたセルフチェックで気づいた左胸のしこり

― 47歳で乳がんを告知された小林さん。乳房の異変に気づいたときのことを教えてください。

最初、左胸の真ん中にしこりのようなものがあり、病院に行って検査をしたら乳腺に水分が溜まってできる良性ののう胞と言われました。それ以来、月に一度のセルフチェックを習慣にして乳房の変化に気をつけていたところ、1年半後、同じ箇所にまたしこりを見つけたんです。病院に行くと念のためしこり部分の組織を採って調べる針生検を行いましょうと言われました。2週間後、検査結果を聞きに行ったらまさかの乳がん……。頭の中が真っ白になりました。

― 乳がんは病状に応じていくつかの治療を組み合わせて治癒を目指します。小林さんはどのような治療を選びましたか。

私の場合、腫瘍の大きさは約5cmに達し、腋の下のリンパ節にも転移していました。先生の提案に従い術前抗がん剤治療で腫瘍を小さくしてから左胸の全摘手術とリンパ節郭清を行い、その後は放射線治療、ホルモン療法と続きました。ホルモン療法でタモキシフェンという薬剤を服用したところ子宮内膜が厚くなってしまい、このまま続けると子宮体がんを発症する可能性があると言われて中断。薬剤を変えてほしいと先生にお願いし、閉経後に使うエキセメスタンというアロマターゼ阻害薬に変えてみると副作用もなくなりました。10年の予定で始めたホルモン療法は今年で4年目を迎えます。最近は術後2年目に発症したリンパ浮腫が悪化してしまい、静脈とリンパ管をつなぎリンパの流れを改善するリンパ管静脈吻合術(LVA)という手術を行い経過は良好です。

 

3歳でわかった息子の知的障害。「小林順子」を封印し介助一色の生活に

― 最重度の知的障害を抱える息子の将(じょう)くんとは、これまでどのように向き合ってきましたか。

21歳になる息子は今、生活介護事業所に通っています。彼は1歳半で受けた検診で発達の遅れの可能性を指摘されましたが、どの病院を受診しても確定診断には至らず「様子を見ましょう」の一辺倒。先天性最重度知的障害の自閉症と診断されたのは3歳のときです。ショックでしたが他のお子さんと違う行動をとる理由がわかり安心したのも事実です。しかしほっとしたのも束の間、「一生しゃべれない、一生おむつ」「絶えず介助者の支援が必要」という医師の言葉を聞いて奈落の底へ突き落された気持ちでした。

息子は頭蓋骨が割れそうなほど壁に頭を打ちつける自傷行為やパニックを繰り返し、多くの時間を泣いて過ごしていました。言葉でのコミュニケーションは難しく、生活全般に介助が必要です。そんな息子から片時も目を離せず、養護学校に行っている5時間のうちに家事を済ませ、息子の支援グッズを手作りする毎日。「自分の時間を持つのは無理」と決め込んでいたのでリフレッシュしたいという願望さえ湧かず、旅行に行く友人をうらやましいと思ったこともないです。そのときの私はもはや「小林順子」ではなく「小林将の母100%」でしたね。子どもに一生懸命で良いママのように聞こえますが、息子の介助で精一杯、自分を顧みる時間と心の余裕がなかったというのが現実です。

思い返すと当時は「すみません」と謝ってばかりいたものです。物を落として拾ってもらったときも口を突いて出るのは「ありがとう」ではなく「すみません」。息子が何か失敗をしたらすぐに謝れるように、私の背中はいつも丸まり猫背でした。障害のある息子と、その息子を産んだ母である自分に引け目を感じていたのだと思います。息子の寝顔を見ながら「将は生きていて幸せなんだろうか。このまま朝が来なければいいのに」と何度思ったことか。あの頃は生きていることに希望が持てずにいました。

 

息子の背中が頼もしく見えた日。「僕がママを支えたい」

― 息子さんの介助と乳がんの治療というふたつの大仕事。小林さんはどのように両立していますか。

告知のときに最初に浮かんだのは、「私は死んだら息子はどうなる?」「私の入院中、息子の世話は誰がする?」でした。もし障害児専門施設に入所させたら環境の変化に絶えられず息子の心は壊れてしまう。「入所させるなら治療はしない」。そう言って主人に訴えたものです。結局手術以外は外来で行い、抗がん剤治療中は副作用で辛い体を押してなんとか私の手で介助し、養護学校の送迎はヘルパーさんに頼むこともありました。ヘルパーさんはなり手が少なく探すのに苦労し、社会福祉協議会や養護学校に協力してもらい見つけることができました。入院中は義母に泊まり込んでもらい息子の介助と家事をお願いし、一人で抱えず周りの手を借り、頼ることで救われたと思います。

― 抗がん剤治療をすると脱毛などが起こり外見に変化が現れます。そんなお母さんの姿を見た息子さんの反応はどうでしたか。

抗がん剤治療が始まると髪が抜け、顔はむくみ、倦怠感もひどく寝込むことが多かったです。なかでも辛かったのは脚の痛みで、階段を上がれず歩くこともままなりませんでした。乳がんになったと伝えても息子は理解できないと思い病気の話はしていませんが、いつもと違う様子を目の当たりにして、ママに大変なことが起こっていると彼は感じ取っていたようです。

その日は珍しく脚の調子が良く、散歩をせがむ息子と一緒に久しぶりに外出しました。ところが5分も歩かないうちに脚が痛み始め、道にしゃがみこんでしまったのです。その様子に気づかず息子はどんどん歩いて行ってしまう。道の端を歩くことや信号の識別も難しい息子。激しい車の往来。ああ、どうしよう……。「将くん!」。呼び戻そうと思い渾身の力を込めて私が叫ぶと、いつもは反応しないのに戻ってきて私の腕をぐっと掴み、自分の腕に絡ませて立ち上がらせてくれたのです。しかも、私の手を自分の脇に挟んで歩き出すじゃないですか。びっくりしました。「ママ行くよ!僕が引っ張ってあげるからね」という声を彼の背中から感じた気がして。「将くん、ありがとう。助かったよ」と思いながら家に帰ったのを覚えています。

その出来事を機に息子に対する私の行動もがらりと変わりました。今はあれ取って、これやってと何でも息子にお願いするようになり、予想外の反応が返ってくることも多々ありますが全部「ありがとう」と返します。いつも支援される立場の息子が支援する経験を覚え、人の役に立つことに喜びを感じているように見えます。僕がなんとかしなければと感じてくれたのかもしれません。もしかしたら元来そういう子で、私が気づかなかっただけなのかも。乳がんになって良かったとは言えませんが、乳がんになったことでたくさんの気づきを得られました。そして私の心の在り方が良い方向に変わったと思います。

将くんの同級性のお母さんたちから届いた千羽鶴が治療の励みに。

12年ぶりに自分を好きになれたフラダンスとの出会い

― 大病をすると今まで通りとはいかず、失うものも確かにあります。しかし見過ごしていた大切なことに目が向き、新たな出会いにも恵まれて人生が厚みを帯びることだってあります。小林さんにとっての運命的な出会いとは。

治療中、先生に運動も必要と言われて始めたフラダンスですね。抗がん剤の副作用で髪が抜けると、以前に増して鏡を見るのが嫌でした。でもフラダンスは鏡の前で練習します。笑った顔やしなやかな手の動きを鏡越しに見ていたら、どんどん自分自身を好きになれたんです。華やかなメイクと衣装をまとうと女性である喜びを感じられ、「乳房を全摘しても問題ないじゃない。今のままで素敵だよ」とフラに言われている気がして。目の前が明るくなるのを感じました。

すっかりフラダンスに夢中になり家でも踊っていると、息子がなんとも言えずいい笑顔で踊る私を見てくれていたんです。その目はまるで「ママのしあわせは、僕のしあわせでもあるんだよ。ママ、良かったね」と言っているようで……。ある人にその話しをしたら「ずっとママの辛い顔を見てきた将くんは、僕のせいで大変な思いをさせてごめんねと思っていたかもしれないね。ママのしあわせそうな顔を見て、初めてその気持ちから解放されたかもしれない」と言われました。「すみません」が口癖で息子の存在を後ろめたく思っていた私はもうおしまい。この言葉で変われた気がします。

― 今ではフラダンスサークルを立ち上げ、障害を抱える子どもの親御さんと共にサポート活動を行っています。活動に対する思いを聞かせてください。

乳がんになってたくさんの方に恩をいただきましたが、一人ひとりに直接感謝をお返しするのは難しいものです。それならフラダンスを通してその恩を身近な人たちに送る「恩送り」をしようと思い、講師の資格を取って「ジュンコ・フラサークル」を立ち上げました。日本対がん協会の依頼でがんサバイバーの方々にストレッチとフラダンスをオンラインで指導したこともあります。フラダンスで体を動かす楽しさを感じ、同じ境遇の人同士で悩みを共有し、心を充電して日常に戻ってほしいです。私が皆さんの充電器になりたいと思って活動しています。

コロナ以前は高齢者施設や障害者施設にボランティアで踊りに行っていました。サークルメンバーの多くは障害児のお母さんです。普段は「障害児のママ100%」の彼女たちが、一個人を取り戻し社会貢献の一旦を担うことに生きがいを感じていますし、スケジュール帳にフラダンスの予定を書くとき「子どもの介助一色の私が、自分の予定を書く日がくるなんて!」と喜ぶメンバーもいます。

高齢者施設などでフラダンスを披露。「待っていてくれる人がいることが喜びです」。

「しあわせになっていい」と気づいた。そのときから止まらない歩み

― 乳がんに関わる資格を取るために学びを重ね、エネルギッシュに今を生きる小林さん。挑戦が止まりませんが、その原動力は何でしょう。

原動力というか……、走るのが楽しくて。止まれないんです(笑)。息子の障害がわかったのは3歳、私の乳がん発症は彼が15歳のとき。この12年間、私は「小林順子」を一切封印し、それを解く鍵が乳がんでした。病気になって嫌でも自分を顧みるようになり、そのお陰で我が身を大切に思い、自分のために時間を使うことを楽しめるようになったんです。幸せの価値観もずいぶん変わりましたよ。乳がんを突きつけられ生きているって当たり前じゃないとわかり、「死にたくない」と強烈に思いました。これまで息子には自立のためのスキルアップを求めてきましたが、今は息子も私も「生きているだけでしあわせ」です。

最後にお母さんたちに伝えたいことがあります。子どもの障害の有無に関わらず子育ては思うようにいかないことが多く、達成感を得られにくいのが母親業というもの。障害があるとなおさら成長を感じにくく、「私が母親じゃなければ、この子はもっと成長するのでは」と思ってしまう。ましてやお母さんが病気になると、満足に介助できない自分を責めてしまいます。子どもはそんなお母さんの様子をよく見ていて、障害のある子は特に敏感に察します。子どものしあわせのためにもお母さんがしあわせで、生きていて楽しいと思う時間を作ることが必要。私はそうなれたことで「障害のある子に産んでごめんね」ではなく、「生きていてよかったね」と言えるようになりました。「子どもがナイスじゃん」と思えることだけでなく、まずは「私自身がナイスじゃん」と思えることを大切にしてください。

取材・執筆/北林あい

▽小林順子さん

乳がんを機にフラダンスと出会い、「ジュンコ・フラサークル」を主宰。障害児の保護者とがんサバイバーを対象にしたレッスンをオンラインなどで開催。乳がん治療と先天性最重度知的障害の息子を介助する傍ら、乳がん体験者コーディネーター、ピンクリボンアドバイザー上級、乳がん啓発運動指導士の資格を取り、社会貢献活動にも積極的に取り組んでいる。

2020年には第55回NHK障害福祉賞に応募した作品『有難う』が最優秀賞を受賞。

「ジュンコ・フラサークル」

 

 

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