体験者インタビュー

両側乳房と卵巣を全摘「女性として胸を張り、この瞬間を楽しんで生きたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3年以内に再発する確率が高いタイプの乳がんを発症し、命と向き合うことを余儀なくされた金子未来さん。治療歴を書き出してみると、使用した抗がん剤の数からも闘病の厳しさが伝わってきます。取材中に見せてくれた「笑顔」に辿り着くまでの8年間にわたる治療の日々を振り返ります。

■35歳で乳がんに。「来たな」と感じた理由とは 

― 金子さんがステージⅡのトリプルネガティブ乳がん※1と診断されたのは、35歳のときですよね。突然の告知だったと思いますが、どのように受け止めましたか。

“トリプルネガティブ”と言われても、当初はそれがどんなものかもわからなかったです。でもトリプルネガティブって、言葉のイメージが悪いですよね。だから「死ぬのかな」と思いました。あとは「なんで私が」ではなく、「来たな」という感じ。というのも、母は私が22歳のときにがんで他界しているんですね。最初は原発不明※2の扁平上皮がん、次に胃がんを発症。最後は白血病で亡くなりました。そのとき母の主治医に「親子は体質が似るから気をつけて」と言われ、私はがん家系なのかなと漠然と思っていて。ただ35歳という若さで発症したので「この年齢でなぜがんに……」と、年齢的に納得できないという思いはありました。

※1乳がんの増殖に関わるエストロゲン受容体、プロゲステロン受容体、HER2という3つの因子が陰性の乳がん。薬物療法はホルモン剤、HER2薬は効かないため抗がん剤を用いる。

※2 「原発不明がん」とは、転移したがんではあるが、最初にどの臓器から発生したのかを確定できないがんのこと。

― 割と冷静だった印象を受けますが、仕事やこれからの生活のことを考えると戸惑いがゼロというわけではないですよね。

そうですね。週末になると私が一人暮らしをする父を訪ね、一週間分の食事を作っていたので父の世話をどうしよう。仕事とお金はどうしよう。どうしようの連続でした。父は心配性なもので病気のことは知らせず、「仕事で海外に出向する」と伝えて治療を始め、その間、父の世話は兄夫婦にお願いしました。会社の社長に休職の相談をしたら「何があっても居場所は確保しておくから。今まで会社を支えてくれたお礼だから」と言ってもらえて。高校卒業と同時に入社し、勤続16年目でした。がんによる休職の前例がないにも関わらず、社長の理解ある対応に感謝しています。同僚には私の状況を知ってもらい味方になってほしいと思い、休職前に朝礼で病気のことを伝えました。

■徹底的に治したはずなのに……。3年後、まさかの再告知

― トリプルネガティブ乳がんは増殖能力が高いと聞きます。待ったなしで治療を始める患者さんも多いようですが、金子さんの場合は?

告知の後、一旦家に帰って考える時間さえ与えられなかったです。かろうじて2時間だけ待ってもらい頭の中を整理し治療開始、という感じでした。最初に抗がん剤治療をやって、その後右乳房を全摘。術後1ヵ月して再び抗がん剤治療へ。先生には「徹底的に再発リスクを減らしたい」と伝え、できる治療は全部やりました。

― それなのに初発の治療が終わった3年後、再び乳がんが発覚しましたね。「つらい治療を頑張ったのになぜ」と、私だったら自暴自棄になると思います。

母が病気になって、患者家族という立場で再発や転移を経験したので、いざ自分がそうなったときは案外落ち着いて受け入れられました。でも「初発時の治療を頑張ってクリアしたのに」「発症から7年経っているのに」と、悔しさがこみ上げてきました。今までの頑張りが報われなかったこと、復職して仕事もリズムに乗ってきたタイミングだったこともあり、「がん」という敵に対してなのか、私の人生というストーリーに対してなのかは自分でも分かりませんが、消化できない理不尽さから怒りの感情もわいてきました。

二回目はステージⅢ、同じくトリプルネガティブ乳がんでした。かなり広がっていると言われ、今回も治療は待ったなし。すぐに抗がん剤治療を始める必要があり、その後に左乳房を全摘。正確に言うと、二度目の乳がんは原発か再発かの見極めが難しく、原発がんとして根治を目指す治療を始めました。怒りの感情で自分を奮い立たせることで、逃げ出さずに化学療法を受けられたのかもしれません。抗がん剤の点滴を受けているときは、「この薬が私のがん細胞をやっつけてくれる!」とイメージしていましたよ。

― 二度目の乳がん治療の過程で卵巣も全摘されたそうですね。どのような経緯と決意で?

職場の健康診断で左卵巣嚢腫の疑いがあると言われ、大学病院を受診し、その経過観察中に二度目の乳がんが見つかったんです。告知後、遺伝子検査を受けました。理由は「BRCA遺伝子変異陽性で転移・再発乳がんの患者のうち、HER2陰性で化学療法を受けたことがある」に該当すれば使える抗がん剤があり、治療の選択肢を増やせるかもしれないと思ったから。また遺伝性乳がんの場合、卵巣がんの発症リスクも上がるので、リスクがわかれば対策ができるとも思いました。検査の結果は「陽性」。卵巣の予防切除を決断しました。ためらいはなかったです。二度も乳がんになった「悔しさ」が、「もう病気になりたくない」という思いを強くし、予防切除に踏み切れたのだと思います。子どもを産める可能性があれば違う選択をしたかもしれませんが、抗がん剤の影響で生理は止まったまま。年齢的にも妊娠は難しかったから。迷いはなかったです。

【金子未来さんの治療歴】

◆2013年12月~2016年4月

・術前抗がん剤治療:FEC療法⇒タキソテール

・右乳房の全摘手術

・術後抗がん剤治療:TS-1⇒UFT⇒経過観察

◆2019年4月

左卵巣嚢腫の疑いがあり経過観察

◆2019年10月

二度目の乳がん告知

◆2019年11月

遺伝子検査で陽性

◆2019年11月~現在

・術前抗がん剤治療:AC療法⇒タキソテール(ジーラスタ併用)

・左乳房の全摘手術

・リムパーザ(服用中)

◆2020年9月

卵巣の全摘手術

一番つらかった副作用は、TS-1による下痢の症状。トイレに間に合わないことがあり外出時はナプキンを着用、着替え用の下着を持ち歩き会社にも常備。しかし泣きながら汚れた下着を洗うことが増えたので、「下着は汚れたら捨てる」に切り替えたところ心の負担を軽減できたそう。

抗がん剤で髪の毛や眉毛が抜けていた頃。それでも忘れなかったのは「笑顔」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■支えは「私の体が変わっても、変わらなかった」パートナーの存在

― 女性にとって大切な乳房と卵巣。金子さんはその両方を失いました。女性性の喪失という心の「痛み」とはどのように向き合いましたか。

先生には「手術の傷は頑張った証だから愛せるようになって」と言われました。でもすぐにはできなかったです。一回目の全摘手術の後、1ヵ月ぐらいかかりましたよ。胸元の傷を見るまでに。乳房を全摘するのは「命と天秤にかけて自分で決めた選択」と、頭では納得していたはず。でも傷跡を見たら涙が止まらず、「ああ、心では納得していないんだ」と自分の本心に気づき、女性じゃなくなる感じがして悲しかったです。もう体にメスを入れたくないから、再建手術はしていません。代わりに人工乳房を使い始め、服の上からきれいなふくらみを見たら少し前向きになれました。

徐々にですが術後の体を受け入れられたのは、長く一緒に暮らしているパートナーのおかげでもあります。卵巣を切除したときもそうですが、私が女性性に関わる体の部分を失うことに対して、彼はまったくすんなりと受け入れてくれたんですね。「何があっても、どうなっても、ミキはミキで変わらないから」って。そう言って受け入れてくれた彼に引っ張られるようにして、私自身もこの体を愛せるようになりました。

― 素敵なパートナーですね。彼は未来さんにとってどんな存在ですか。

最強の応援団です。乳がんを告知されたとき、治療が始まれば抗がん剤の副作用で髪は脱けるし、乳房もなくなると思い、「逃げるなら今にして」と彼に言ったんですね。治療の途中で別れるのはつらいから。そうしたら「ずっと一緒にいるよ。ウチはウチらしく、明るくやっていこう」と言ってくれたのが心強かったです。

― ほかにも彼の言動に励まされたことはありますか。

脱毛が始まると、シャワーを浴びたときが一番抜けるんですね。バサッと抜けた髪を見て私がお風呂場で泣いていたら、「片づけは俺がやるから。もう出ちゃいなよ」って。それ以来、抜けた髪の処理は彼がやってくれて、自分ではしたことがないんです。乳房再建の相談をしたときは、「やりたいならやっていいけど、やりたくないならそのままでいいよ」と言ってくれました。ちゃんと向き合い、すべてを受け入れてくれるところが支えです。

― 絶対的な味方がいてくれる。そう思うと心を閉ざすことなく、治療にも前向きになれそうですね。未来さんはいまの自分自身をどのように捉えていますか。

乳がんは35歳からの私の個性だと思っています。だから新しいカタチになったこの体も含めていまの自分が好き。「私、がんばりました!」と胸を張って生きたいです。「女性性」の部分では、子どもは産めないけれど母性は持っているし。乳房と卵巣を失っても堂々と女性であり続けるつもり。これまで以上に内面は女性らしく、細やかな気配りのできる人でいたいです。

復職の際、病状や治療内容のほか、「仕事をする中で『これはできる?』など遠慮せず聞いてほしい」と綴り、職場の人たちに配布。病気への理解と協力を得るには患者からの歩み寄りと工夫も必要。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■命の期限を思慮するより「太く、豊かにいまを生きたい」

― いまも抗がん剤治療が続いているそうですが、治療と並行してこれからやってみたいことはありますか。

彼と一緒に車で日本一周を計画中で、そんな夢を見られるようになったことが嬉しいです。病気をしていなければ、きっと思いつかなかったことだから。

― どうしてそう思うのですか。

私はパートナーがいても頼るのが下手で、病気になる前は、自分の足で立たなければといつも必死でした。「老後のためにお金を貯めなくちゃ」「そのためには役職を手放してはいけない」と、考えるのは将来に備えることばかり。いま思えば手を抜いていい部分も頑張り過ぎていました。がんになって命の期限がわからなくなり、それなら太く生きたいな。大切な人との時間をたくさん作りたいなと思えて、いまを疎かにするのをやめました。あんなに固執していた役職も辞退したんですよ。いまの私には荷が重かったので。また必要になったら拾いに行けばいいやと思っています。いろんな欲が吹っ切れて、自分に必要なものとそうでないものを選択できるようになったら生活がすごくシンプルになりました。生きる意欲だけは、前より強くなったけど。

― 自分に正直に生きる未来さんが、眩しく見えます。でもときどき不安になることもあるのでは。そのとき、未来さん流の対処法を教えてください。

不安にあらがわずに泣くことです。不安や悲しみは溜まると溢れてしまうので。そうならないようにしょっちゅう一人で泣いて、泣くとすっきりしますよ。あとは、不安な感情を手帳に書き出すこと。文字にすると「私はいま、何に対して不安を感じているのか」客観視できて、気持ちを整理できると落ち着きを取り戻せるもの。不安は感情の波なので、波が引くと自然と薄れていきます。

命の期限を考えることですか? これまでに何度もありました。死がすごく近くに来ている感じがして、「余命がわかったほうが楽なのに」と思ったものです。楽しいことをしているときに限って頭をよぎるんですよね。「来年の今日、私はここにいるかな」と。そんなことが続いたから「3年日記」をつけ始めたんです。もし来年も元気でいられたら、前の年の同じ日、何をしていたか見返したいと思います。がんにならなければ、30代でこんなふうに自分の命と向き合うこともなく、そのほうが楽ではあるけど。病気になる前の私に戻ることはできないから、がんになった人生を受け入れて、いまこの瞬間を生きていきたいです。

金子未来さん

建築資材メーカー勤務。35歳でトリプルネガティブ乳がんを発症し、現在も抗がん剤治療を継続中。治療の傍ら乳がん体験者コーディネーターの資格を取得し、身近な人たちに検診の大切さを伝え、乳がんに罹患した人の相談にも応じる。

 

 

 

 

 

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